気づけばずっとスマホを持っている

スマホを常に触っている。
スマホにバンカーリングをつけてスマホを四六時中、手に持っている。

エレベーターの中。何かのちょっとした待ち時間。
買い物するときのレジの待ち時間。

事あるごとにスマホをズボンのポケットから出して、Xを開く、Instagramを開く。
一日になんどスマホのロックを解除しているのだろうか。

たまに面白い記事はあるけれど、大抵は特に響いたりもしない。

それに本当に細切れの時間で見る記事がずっしりと頭に残ったりするわけもない。

ベッドやソファーでもスワイプが止まらない

ベッドに入ってもYoutubeのshortをスワイプする。
ソファーに座っていてもYoutubeをあの小さな画面で眺めている。

世間の闇や秘密、陰謀論がとても知れる気になってしまう。

肩こりや親指の付け根が痛い

右の肩こりが本当に酷い。つねに首の付け根に小さな石ころがあるかのように引っかかる。
右に傾けるとツンと痛みが走るような感じがする。

親指の付け根がなんとなく痛いような気がする。

一時期は右腕の肘の付け根あたりが痛くて仕方がなかった。

多分スマホのせいだ

正確に言うとスマホを持ち続けている自分が悪い。

歩くとき、隙間時間、ベッド、ソファーでスマホをずーっと持っていれば、それはその持つ筋肉である右手、右肘、肩の筋肉の緊張が走るというのはそれはそうだろう。

だから、右が側が痛いんだと思う。

ある程度予想はついていて、解決方法もスマホを持たなければいいのだろうと思う。
でも、難しいのだ。

これまで何度もトライしてきた。
でも、スマホを持たないということはなにか難しく、失敗もしてきた。

習慣とは恐ろしいものだ。

肩掛けポシェットを買う

自分の生活からいきなり剥がしてしまうのは無理だし、そんな心理的なコストを払うのは難しい。
だから、ほんの少しだけスマホを取り出しづらくしてみた。

いつもはスマホはズボンのポケットに入れている。
これを肩掛けのポシェットに入れる。

このポシェットにはジッパーも付いているので、ほんの少しだけ取り出しづらい。
ジッパーを開けて、スマホを取り出して、ロックを解除する。
ちょっと手間だ。

でも、スマホは常に持っておけるし、手放さなくなったわけではない。
安心だ。

目に見えて外でスマホを見る回数が減った

外に出たときにはスマホを取り出すのが少し億劫になったおかげで目に見えてスマホを触る回数が少なくなった。
代わりに景色を眺める時間が増えた。

子供を眺める。駅の看板を眺める。点字ブロック、駅の電光掲示板。
道路を行き交う人々。街路樹、海。そこら辺に生えている名前もわからない草たち。

スマホの外にも世界は広がっている。
当然と言えば当然である。

気づいたらスマホを探してる自分もいる。
右手がポシェットを探して、少し右手を胸のあたりに上げる。

でも、出すのが面倒だからいいか。

そう思いながら、右手を下ろす。

こうやってスマホを取り出す時間は減っていった。

ポシェットを帰ったら玄関のフックに掛けるようになった

家でもスマホを見るので、できたら見る時間を減らしてみたいのでスマホを玄関のフックにかけて見るようにした。

そのために充電器も玄関においた。

家から帰ってきたら、コートを脱いて、ポシェットを玄関にかけて、充電器につなぐ。

幸い家には娯楽はたくさんある。
タブレットもあるし、このブログを書いているChromebookもある。

インターネットに繋いで娯楽を楽しむ方法は色々ある。

だから、タブレットでYoutubeを見たり、Netflixを見たり、Chromebookでネットサーフィンしている。

それでも子供と遊ぶときの隙間時間はスマホを見なくて済むようになった。
なにか健全だなと思う。

すっかり家ではスマホを見なくなった

タブレット、Chromebookで十分に済むようになった。
もちろん、電話とかはスマホなのでそっちを確認する必要がある。

でも、大抵は不要になった。

外には相変わらずスマホは持って行くが、それも長い外出の時だけで済むようになった。

買い物もしない散歩の時なんかはもう、鍵だけ持って外を歩くようになった。

スマホを持たなくなっても何も困らない

スマホを持たなくなって、しばらくたった。

何も困らない。本当に。

残念だ。本当に残念だ。

スマホには本当に恋い焦がれていると言ってもいいほど一心同体の存在だったのに。
離れてみれば不要だったということに気がついてしまった。

スマホはエンタメに近い存在で、生活するのにほぼ必要なかったんだ。

スマホと少し距離を置けるようになった自分を少し誇らしく思うと同時に、残念に思う。

いい気分というより、残念な気分である。

自慢したい気持ちと宝物を手放してしまったようなさみしい気持ちの両方がある。

でも、最終的にこういう記事がかけることを喜ばしく思う。